MENU

若林正恭の生い立ちが意外!極貧生活でも私立中学に通えた理由がヤバい!父親と絶縁も!?

若林正恭 生い立ち 父親 中学 極貧

お笑いコンビ「オードリー」のツッコミ担当で、バラエティ番組に引っ張りだこの若林正恭さん。

世の中を斜めに見るキャラでブレイクしましたが、そのルーツは生い立ちにあるようです。

幼い頃は極貧生活で、父親と絶縁した時期があるという噂も。

若林正恭さんの生い立ちについて調べてみました。


Contents

若林正恭の生い立ちが意外!

若林正恭 生い立ち 父親 中学 極貧

若林正恭さんは、東京都中央区の入船に生まれ育ちました。

実家の近くには隅田川が流れており、八丁堀駅や新富町駅に近かったそうです。

家族構成は父・母・姉がいる4人家族で、幼い頃は銀座が遊び場だったそう。

銀座は松坂屋とか三越とか松屋とかデパートがたくさんあったので、よく行っていましたね。

僕らの遊び場といえば、デパートのおもちゃ売り場だったんですよ。種類豊富な最新のおもちゃを試しに遊べる場所があったので、ミニ四駆とかファミコンとか、たくさん遊びましたね。

デパートの屋上に友だちと行って、ただただ座ってしゃべったり

引用:ほぼ日の東京特集。

すごく都会っ子なんだね!

地上げ屋に遭ったため、小学6年生から杉並区に引っ越すことに。

下町で育ち、荻窪周辺で10代を過ごした“東京っ子”の若林正恭さんですが、東京出身にはあまり見られないそう。

僕が銀座の横の出身とはまったく思えない感じだから、「こんな服もダサくて田舎臭い人が、なんで東京出身なの?」とも周りによく言われます。

引用:ほぼ日の東京特集。

陰キャのイメージがある若林正恭さんが、銀座を遊び場にしていたとは意外ですね。

若林正恭が極貧生活でも私立中学に通えた理由がヤバい!

若林正恭 生い立ち 父親 中学 極貧

若林正恭さんは中央区立明石小学校を卒業後、杉並区にある日本大学第二中学校に進学。

若林正恭 学歴
  • 東京都中央区立明石小学校
  • 日本大学第二中学校・高等学校
  • 東洋大学文学部第2部国文学科

日本大学第二中学校は男女共学に私立中学で、中高一貫校です。

偏差値は「57〜60」と言われており、若林正恭さんは優秀だったのでしょうね。

中学から私立に通うということは、実家はお金持ちと思われがちですが、若林正恭さんは極貧生活を経験していました。

なんと、父親が何度も仕事をクビになっていたのです!

父が会社を8回クビになっていた」ことを大人になってから知った若林は、子供の頃は「親父がいつも家にいるな」と違和感を覚えていたと明かす。

父がいつも家にいると「ウインナーとご飯だけ」「豆腐とご飯だけ」など、おかずが減る。逆に父が家にいないとおかずが増えていき、「それを何度か繰り返した」という。

引用:Sirabee

仕事をサボる癖があった父親は、バレるたびにクビになり、生活が不安定だったとのこと。

それでも私立の中高一貫校に通えたのは、祖父母の援助や母親のサポートがあったからでしょう。

若林正恭さんの祖母は「食堂・林」を経営しており、父親はその隣にある「喫茶・林」でマスターをしていた時期もあるそうです。

ちなみに、小学6年生で杉並区に引っ越した若林正恭さんですが、転校せずに中央区の明石小学校に越境通学していました。

水道橋から京王井の頭線久我山駅まで1時間かけて通学していましたが、満員電車に揺られるサラリーマンの暗い表情を見て「こんな大人になりたくない」と思ったそう。

若林さんらしいね!

ビートたけしさんがバラエティ番組で暴れている姿を見て「こんな仕事をしたい!」と思い、お笑い芸人を目指すように。

芸人志望だった若林正恭さんは大学に進学するつもりがなく、勉強にも力を入れなかったため、成績は振るわず。

中学校のラグビー部で出会った春日俊彰さんとコンビを結成することになりますが、春日俊彰さんが大学進学を希望したため、慌てて進学の準備を始めました。

しかし、成績が悪かったため日本大学への内部進学も叶わず、東洋大学の夜間学部に進学することになりました。

若林正恭は父親と絶縁も!?

若林正恭 生い立ち 父親 中学 極貧

NFL好きな父親の影響でラグビーを始め、父親が他界したときにはお笑いのネタが書けなくなるほど落ち込むなど、父親とのつながりが深い若林正恭さん。

しかし、そんな父親から“絶縁”を言い渡されたことがありました。

2000年に春日俊彰さんと「ナイスミドル」を結成し、お笑い芸人としてデビューしましたが、鳴かず飛ばずの日々。

2005年「オードリー」に改名しますが、2007年になっても結果は出ず、定職にも就かずダラダラとお笑い芸人を続けていました。

そんな若林正恭さんの姿に業を煮やした父親は「芸人を辞めて定職に就くか、家を出て芸人を続けるか」を迫ったところ、家を出ることを選んだのです。

芸人を続けることにしたんだね!

父親は司法書士に念書の作成を依頼するほど本気だったため、若林正恭さんは実質の“絶縁状”だと感じたそうです。

しかし翌年、オードリーが『M-1グランプリ』で「4431」というエントリーナンバーを取得したことから関係に変化が。

阪神タイガースファンだった父親は、4431という番号は「ランディ・バースの背番号44」と「掛布雅之の背番号31」を合わせたものと思い込んで感動したそう。

2008年『M-1グランプリ』で、見事準優勝という結果を残したオードリー。

若林正恭さんは2009年の正月に実家に帰り、父親とじっくり語り合って和解できたそうです。

今では数々の番組のMCを務めるなど、売れっ子芸人となった若林正恭さん。

父親の愛ある“喝”が、ターニングポイントだったのかもしれませんね。

まとめ

若林正恭さんの生い立ちについて調べてきました。

  • 東京都中央区に生まれた“東京っ子”
  • 父親が仕事を8回クビになり極貧生活も
  • 売れない時期には父親から“絶縁”された

生い立ちに意外性のある若林正恭さん。

今後も多方面で活躍してほしいですね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
Contents
閉じる